旅行・地域

seoul no.2

ソウルに来て最初に水原(スウオン)の民族村に行き、自分の存在の故郷を見たが、ソウルにいる間、その思いは付きまとった。勿論それは、同じ肌の色、顔立ちからくる親近感に違いないのだが、地下鉄の中で若者が年配者に席を譲っている光景を見ることが東京より多いということである。日本でも私の学生時代はそうだったように思う。これも懐かしさ、郷愁を呼んだ。

地下鉄の中に大きな声で物売りがくる。これも懐かしい。今は見ないが、かつては山手線の中で見たことがあった。明洞(ミョンドン)の繁華街のど真ん中で地面に這いつくばっている男がいた。傷痍軍人ではないが、両足が膝から下が無いようだった。身体の欠損を理由にした物乞いは、インドに多かったが、東京では見ない。ただ、ホームレスは見なかった。

若い女性は、肌が綺麗だ。そして、日本でもそうだが、短いスカートとヒールの高い靴をうまく履きこなしている。脚も綺麗だ。だから、そういう恰好をしているのだと分かりきったことを言ってもしょうがないが、それにしても暑いのに長いパッチを履くようなファッションを流行らせたものだ。それをうまく着こなしている若い女性には感心するが、お腹の出たような人は真似しない方が賢明である。ショートパンツに長めのハイソックスとの間の太ももが色気があってあんなにも魅惑的なものになろうとは、誰が想像しただろうか。

ソウルの町は、遊びに行くのは近いし、安いし、いいかもしれない。大学路(テハンロ)でいいパフォーマンスを見た。ドローイング・ショーという絵を描いて見せるというものだが、これがなかなかのショーだった。デッサンもなかなかだし、充分楽しませてくれる。東京でやっても受けると思った。

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seoul2009.09.23.

ソウルから地下鉄一号線の九老駅で乗り換えてさらに南下すると国鉄水原駅に着く。地下鉄一号線は、ソウル駅から南に100kmほど、一時間ほどで中規模の地方都市水原(スウオン)駅に着く。急行、快速などの列車もあるが、料金が派生するので地下鉄に乗る。ソウルの地下鉄はきれいで、色分けが明確なので乗り換えもスムーズ。滞在中2回のチャージで充分だった。クレジットカードのようなチケットを買うのに金浦空港で多少時間がかかったが、憶えれば容易に手に入る。日本語バージョンがあるが、駅名は英文なので最初戸惑う。

水原駅までの各駅には必ず高層住宅が隣接している。学生と思しき女の子がたくさん乗っている。大学の名称を駅名にした2,3の駅で女の子たちは降りていった。約一時間でスウオン駅だ。その水原駅を中心に東に韓国民族村、西に水原城を有する一大観光都市となっている。JR浦和駅のような大規模の駅ターミナルになっている。駅ビルを出て左に平屋の瓦屋根の観光案内所がある。その左スミが民族村のチケット売り場。そこで入場券を買えば往復のバスの乗車は無料になる。20分ほどで広い駐車場のある村に到着。周囲は高層住宅。

そこは、わたしにとって一大故郷といえるような懐かしい村だった。もう30年ほども前に、或る日見た夢が、両親の故郷のある姫路の郊外の書写山だったという経験があるが、その懐かしさよりももっと深い私の存在の奥の奥からくるような郷愁感といったものだった。遠くはるかむかしの生活、先祖の先祖がそこで暮らしていたというようなものすごく懐かしい感覚をもようをさせた。私のずっと昔のおじいちゃんとおばあちゃんがきっとここで生活していたんだというような感慨に陥っていた。ひどく懐かしく、私はその茅葺屋根の田舎の家にずっと住んでいたかった。時間を忘れた。まさかソウルに来てこうした体験をするとは思わなかった。20090923seoul115

 ソウル市内で地下鉄に乗っているときも違和感は全くなかった。日本人の先祖は、朝鮮半島であり、さらに中国大陸であることは、自然の成り行きではあるが、そしてそうした民族学的な潮流からすれば、ごく近い近年に日本人は、それらの先祖の人々を侵略し、略奪を繰り返してきた、暴虐的な民族といわれても過言ではないと思われる。

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imakokoniiru@jimma080711

imakokoniiru@jimma080711

プラハは、ビールがうまい。おそらく世界一と言って過言ではない。最初行ったときは、観光地化している老舗のビアホールに行った。確か、ドボルザークの記念館の近くにあったと思った。わたしたちが日本人とわかると「上を向いて歩こう」をやってくれた。黒の混じった生が座るとすぐに運ばれた。実にうまい。2007年に行ったときは、記述したように旧市街の真ん中にある「ズラホーテ・ティグラ(黄金の虎)」でもっとおいしいビールを飲んだのだが・・・・・・。

そこを出て、少し坂をのぼると、瀟洒な建物が、塀に囲まれて,如何にも記念館といった佇まいであった。ドヴォルザークの記念館だ。「新世界」の譜面とかかざってある。

パリのミュゼ・ロダンをこぶりにした建物と中庭で、ゆっくりした時間を過ごしたあと、目的もなく周辺をぶらついていると、ゴチックでもアールヌーボーでもないアールデコでもない、古くて四角ばった大きな建物が出現した。出っくわしたと言った表現が相応しい。こげ茶色のレンガを積み上げた、どちらかと言うと、アールデコ風にデザインされた建物はどうやら病院のようだ。受付に入っていいかと聞くと、どうぞどうぞ入ってください。写真もどうぞと言ってくれた。後日間違いなくこのデザインとそっくりの建物をミュンヘンの街角で発見したが、添付のアルバムに掲載しておきますが、クラシックなデザインと近代的なデザインの中間的なデザインなので、その異彩な佇まいに感動を覚えた。

中庭からの周囲の病室の空間も中世とか近代とかの時代を超越した不思議な感覚を呼び起こし、しばしそのかもし出された世界にぼうっとしていた。建物の雰囲気に酔うという気障な性格があって、この後だったかまえだったかにも、メルボルンのフランス人街のニューオリンズ風のベランダのある街並み、カナダのモントリオールはもっと規模が大きかったが、ああいう街並みに行くと最早お手上げ状態で、その景色を無茶撮りすることに陥ってしまう。このときもそこがプラハであることは忘れて、どこか遠い異国の建築デザイン会社にいるような、建築学科の研究室にいるような感覚が襲い、私は何故に建築家にならなかったかと言うような人生を反省している自分をその建物全体が、小さな東アジアの人間の感性を黙って吹き飛ばして、現実的な世界に引き戻すのだ。

名残惜しいネオ・ゴチックといった建物をあとにしてプラハの名も知れぬ坂道を降りると、トラムにぶつかり、偶然にもカドリエンナーレの会場で、照明音響を提供しているベルギーの学生に出会うというハプニングが待っていたのだった。同じトラムに乗って途中で彼は都心の方に向かったが、私たちはプラハにいる間そうしたように一度ホテルに帰って、ヨルの行事に備えたのだった。それが、沢さんのパフォーマンスの前だったか後だったか、5年前のことは資料を調べないと思い出さないが、プラハ・カドリエンナーレの会場でパフォーマンスをやるのは、其の年に中央広場で日本人の振付師がコンタンポラン・ダンスの振り付けをしていたのと同様に、それ以来のことだったと思われる。2011年のパフォーマンスは、コペンハーゲンのスヴェン・クリステンセンを推薦しようと思っている。

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imakokoniiru@yahoo.co,jp no.2-5

imakokoniiru@yahoo.co.jp no.2-5  jimma080602

imakokoniiru「いまここにいる」と言う表題は、芝居を一緒に作った仲間からもらった。というよりパクッタ。彼が使っていた携帯メールのアドレスはima-kokoniiruだった。

今TVで、プロサッカー選手だった中田英寿がサッカーをやめてから何をやっていたかという番組をやっている。まさに「今ここに居る」をTV番組にしたような映像の連続である。というのは、私がブログで語っている言葉は、自分が今そこで感じたことを語っているのであって、それは何かを探求したり、準備をして語っているわけではない。自分の存在を感じて語ることが私の仕事になった。

サンファルジョーから南東に80kmぐらい行ったところに低い丘があって集落がある。その頂には寺院がある。バジリク・ド・マリー・マドレーヌ・ド・ヴェズレイである。

マグダラのマリアの遺骨の一部が地下に祭ってあるカソリックの聖地のひとつである。

毎年夏には、ここからスペインの聖地に向かって巡礼が旅発つ拠点になっているそうだ。

私がそこに行けたのは、偶然だった。それだけに感動が大きい。昨年夏にNHKで休日ごとにパリからマルセイユまでフランス縦断の中継をやっていた。パリはノートルダム寺院の斜め前の建物のベランダのようなところからノートルダムを斜め上方から眺めながらの中継だった。テーマがフランスの文化の歴史を名所旧跡をたどって見て行くというものだった思うのだが、その中間地点として、このバジリク・ド・ヴェズレイが取り上げてあった。

弟の経営しているペンション・ハウスに訪れて、まさかそのバジリクに連れて行かれるとは夢にも思っていなかった。サンファルジョー滞在中には、世界遺産のシャンポール城、陶器の生産地ジアン、ワイン生産地のシャブリやサンセール、などに行ったが、私にとってはこのヴェズレイが一番感動した。参道の入り口で車をおりて、シーズン・オフなので人通りの少ない坂道を登る。商店街も休みの店が多い。売り出しの家があったが、結構な東京なみの金額が提示してあった。中間ぐらいのところにロマン・ローランの終焉の家が表に銘記してあった。Calligraphyと看板にある店には書道用の毛筆が陳列してある。

すごくいい天気なので、すべてが印象的に見えた。バジリクというのは、カソリックの寺院の中でもその地域の拠点になるべく指定される大規模の寺院に当てられる呼び名らしい。ここは特にマグダラのマリアがたどり着いたと言われているだけに、かなりの規模の伽藍になっている。ノートルダムの正面のような塔が右側だけあって、一見不自然な感じのファサードだが、それだけに古さと時代を感じさせる。正面に嵌め込まれている無数の彫像には、コケが生えているようだ。これ以上の素朴な建築物は、フォロロマーノに行っても見られないだろうと思うような素朴な石の建築物、カソリックの教会にしては、彫像や宗教画は一切飾ってない。窓が多く、伽藍の中は明るくピンク色に輝いていた。パイプオルガンも箱型の中規模なものが床に置いてあった。

祭壇も質素。祭壇の下に確か地下室があって、マグダラのマリアの遺骨があるはずと階段を下りると、TV中継のときに見たそのままの納骨堂があった。宝石箱を大きくしたような透明のケースに小さな細片が保存してある。上品な鉄の柵で仕切られているが、反対側の正面にはこじんまりとした受難像があり、荘厳な雰囲気だった。この旅では、沢山の教会をおとずれたが、初めて祭壇の前に置いてある燭台にローソクを捧げた。2ユーロのローソク代とともに。

第二次世界大戦が終わった1946年に、毎年周囲の人々が十字架を背負って奉納する行事にドイツ軍の捕虜たちが同じように木の十字架を背負って奉納した。その十字架が特別に祭壇のすぐ脇に展示してある。プリゾニエー・アルマーニュと銘記したままに。

バジリクの裏庭に出るとそこは270度のパノラマが広がっている。フランスの大地。

やわらかい光の中にこじんまりとした集落が見える。中に小さな教会が見える。フランスに限らずヨーロッパの町や村にはどんなに小さな集落でも教会がある。大都会には、それこそ街ごとにある。パリは勿論、プラハも沢山の教会がある。宗教が人間の生活の重要な部分を支えているのだと思った。

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imakokoniiru@yahoo.co,jp no.2-4

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jimma080531

パリを午後11時に発ってサンファルジョーに夜中の2時過ぎに着いた。リリアンヌは起きて待っていてくれた。久しぶりの邂逅。リリアンヌは元気そうだった。民宿と言うよりペンションといったほうがいいのか、こうした仕事があっているみたいだ。

大きな黒い猫がいる。二人で可愛がっているようだ。一階の入り口を入って右側が8畳ぐらいの書斎。事務机と大きなソファと見覚えのある大きな家具。一階が20畳ぐらいの広間になっていて6人がけの食卓もリビングセットも同じ空間で右側の書斎を回ったところが一段高くなっていて台所になっている。気の利いた小物が沢山飾ってあって趣味のよさを伺わせる。写真を沢山撮った。「サンファルジョー2008」を見ていただければその一部をご覧いただけます。

来客用の部屋が2階に三つあって、今使えるのはそのうちの二つ。それぞれバストイレつきで、12畳程度の広さがある。私たちは、一番大きな部屋で、ベットには天蓋がついている。さながら地方の豪族の邸宅のようだ。かつてのこの辺の地域の長官の家で16世紀に立てられたそうだ。そのためか、そこここが修理が必要だったようだ。屋根裏部屋にのぼる階段はまだ工事が終わってない。断熱材が剥き出しになっている。

ベットの壁の両サイドにドアがあって、トイレとバスルームが分かれている。

バスルームは、クラシックな作りで、おおきな白いホーロー作りのバスタブ、シャワーの調整もクラシックな真鍮の金具。バスタブ床のホーローがはがれているがウレタンの敷物で覆えば問題ない。バスルームのなかにもスティームのラジエターがあるのは、北国のようだ。

翌朝私たちは、ミルク一杯の紅茶をたっぷり飲んで早速村の見学に出かけた。一番大きな建物は、サンファルジョー城。パリの貴族たちの狩猟のための砦だった。残念ながらシーズンオフでしまっていたが、夏には7月14日から一ヶ月ほどフェスティバルがあって、お城の中でエンターテインメントなどがあって賑わうそうだ。外周はちゃんと堀割の掘ってある堅牢な作り、昨年6月にドイツのヴァイケルスハイムという田舎に行ったが、そこのお城もこじんまりして綺麗なお城だった。ロンドン塔もインドのアゴラ城も外堀には水はなく牧草のような草が生えていて、なかには羊や牛を飼っているところもあった。

お城の裏のほうはお堀も浅く小さな小川に続いている。林のなかの小川が周囲と分かたっている裏庭は広大でワイルドだ。一週間の滞在では、この田舎のよさは判りそうもないが、いつかまたゆっくりこの田舎町を楽しむことにしようと思わせる。古い教会もある。歩き回っているのは、私たちだけ。住人らしき人には、パン屋さんで会ったくらいだ。そうそう後でよったスーパーには数人来ていた。小規模のスーパーが200mぐらい先にあって、リリアンヌをここに決心させたらしい。

今回のフランスでビジュアルとして終始眼を奪ったのは、立ち木の不思議な形だった。

特に田舎の方に多かったが、枝の途中がこぶのようになっていて、その先から細い枝が

多数出ている。ほどんどオブジェのような立ち木が並んでいて、特にジアンの川畔の並木は見事だった。

来年の絵のテーマはこれに決めた。昨年から毎年12月に国立新美術館で開催される日大芸術油科卒業生を中心にした美術展「土日会」に出展できるようになったので、一年間の成果を発表する場として参加させてもらっている。第一回目は、20年前にパリに行ったとき、デファンスで撮ってもらった私たち夫婦と弟夫婦がカフェテラスでビールを飲んでいるときの写真をもとに10年ぐらい前に描いた100号とプラハのカレル橋の上でスヴェン・クリステンセンを中心にクラウンのパフォーマンスをしているところを描いた100号。フラメンコを踊る友人の横田千浪サンを描いた60号の3作品を展示してもらった。今年のテーマは、建物にした。数年前からオペラ・ガルニエを正面から撮った写真を下に50号を描いているが、それにプラハの国立劇場ナロードニ・ジバードロを50号で、シドニーのサーキュラーキーから撮ったハーバーブリッジを60号で、計3枚にした。許されれば、パリの地下鉄の通路にポスターが沢山貼ってあったローナ・ハートナーを描いた60号を加えるかもしれない。その絵のテーマを来年は、このオブジェのような並木にしようと思ったわけです。

ローナ・ハートナーは、ハンガリーのジプシーで、フランスの映画監督が撮ったフラメンコ・ジプシーのルーツを探る映画で重要な役目を果たしていた。それはインドから始まって中近東・マケドニア・ハンガリーそしてフランス・スペインへと繋がるジプシーの踊りの継承的な役目を果たしているようだった。その映画を見て描いてみたもの。パリの地下鉄の通路にその演奏会のポスターがあちこちに貼ってあったのでフランスのジプシーのミュジシャンとのコラボレーションをやるのではないか。その会場を探して見に行く元気はもうない。

さて、サンファルジョーで私たちは毎日俊樹の車であっちこっち連れて行ってもらった。

シャブリ、サンセールをはじめとした沢山のワイーナリー。陶器のジアン。世界遺産のシャンポール城。運河がロワールの上を渡っている場所。県庁所在地のエクセール。

中でも今回一番の感動を覚えたのは、バジリク・ド・マリー・マドレーヌ・ド・

ヴェズレーに行ったことだった。次回は、その話をしましょう。

「ひできの記録」及び「叢林亭ウエブサイト」http://www.sorintei.com 

をごらんください。

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imakokoniiru@yahoo.co.jp no.2-3

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jimma080529

さて24日久しぶりのパリの最終日前日私たちは、旧オペラ座パレ・ガルニエに初めてパフォーマンスを見に行った。勿論東京でインターネットで予約し、切符はすぐに送ってきていた。申し込みの際に、クレジットがすぐにレジストレーションできずにいる間に、5日の分を一枚先に予約ができてしまった。前日に予約OKがきて、クレジット番号を打ち込んだがエラーがきたので、もう一度空き状況を見ると前日あった4日の席は既になくなっている。ならば5日を買おうと5日を予約し、番号を入れたらうまく購入できてしまったのだ。同じクレジットカードの番号なので、4日はなんでエラーなんだともう一度空き状況を見るとなんと私が買おうとした席が2席また残席状態になっているではないか。5日の分は誰かに買ってもらって予定通り4日に見ようと番号を打ち込むと今度はOKになった。判然としないが、インターネットで買うとしばしばこういうことになるのは以前にも経験していたので、5日は俊樹にでもみてもらうかと、切符が送られてきてそう考えていた。

海外の公演の予約を専門にやってくれる東京のチケットセンターで予約すると、約3千円のマージンを取られるのは、ロンドンにミュージカルを見に行ったときに経験していた。

ベルリン・オペラの時は、東京でなかなか予約ができず、ベルリンに行ってもホテルの近くのチケットセンターでとれず、直接劇場に行ってみようと地下鉄で2駅だったので行ってみると、なんとまだ席は沢山あり、ど真ん中の二列目が二席8千円程度で購入できたということがあった。それで判ったことは、「予約できません」ということは、希望の劇場のチケットセンターの営業時間でないとその成否が分からないという意味であって、売り切れではないという意味だということなのだが、パリ・オペラガルニエに関しては、初期に行ったときに当日券があるか俊樹が尋ねたら、支配人みたいな年配の紳士が「カンパリ」とか「コンプリ」とか繰り返して、残念な思いをしたことがあったので、演目もベジャールに継ぐダンス界の大物ピナ・バウシュの振り付けなので、東京でネットでの売り出しを待って直ちに購入したのであった。

今回のシテ・ド・ラ・ミュジクもバスティーユ・オペラもすべてネットで購入できた。

手数料も要らず,万国共通の手段で公平ではないか。

席は3階のコンパートメント。オペラ劇場に良くある4~6人づつ座る部屋が並んでいるやつだ。永野さん一家は2階の正面の方だった。勿論こういう座席は初めて、翻訳ものの芝居のときに使うような猫足の背椅子。床が板張りで少しぎしぎし言うのが気になる。それぞれの部屋についているドアも木製の粗末なもの。それぞれ鍵つきだがドアノブがない、ちゃちな鍵がついていて、休憩時に客が部屋を出ると係りが鍵をかけることになっているらしい。こうした劇場にはどんな人間が来るかわからないという往年の知恵なのだろうがいまやウザッタイ感じがする。係りのおじさんのチップ狙いみたいだ。係りの人は中年のおじさんだった。フロントの方は、若い男女がいて、終演時にも大きな声でパンフレットを売っていた。

さてピナの振り付け演出は、約20年前にブッパタールで初演している「オルフェとユリディス」で、ミテキ・クドウがプリンシパルで出演していた。全体的には、クラシックな仕立てで、ダンサーとオペラ歌手が同じ役を演ずるという当時としては、先端的なものだったと思われるが、今のピナだったらもっと派手な衣裳・舞台をデザインしていると思われた。俊樹に5日に見てもらって、ついでに車で来てもらって私たちは予定より半日早く5日の夜11時ごろ、パリを後にした。

前日空調が調子悪かったこともあって受付の男の子は、申し訳けなさそうにしていた。

「メッシー! オーボワー!」

後日談として、なんとこのオペラ座に私たちはオペラグラスを忘れてきてしまった。

妻が30年以上前から主に宝塚歌劇を見るために使っていたものなので惜しかったが、調子が悪く、二重に見えたりしていたので諦める事にした。

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朝早く、と言っても7時からホテルの前の公園を見て回る。恐らく東京ドーム4つ分ぐらいの広さがあると思われる公園は、約30年前に東京でパリの新しい都市計画のプロジェクトのひとつとして、ルーブル美術館のピラミッド、デファンスのアルシュ、オルセー美術館などとともにこの公園の中の建築群のデザインの紹介があった。そのとき私はいつか必ずこれを見にパリに行こうと思っていた。コンセルバトワールの側面は、ル・コルビュゼの初期の作品ロンシャンの教会の曲線を思い起こさせる。正面は、前川國男設計の上野の文化会館を思い出す。巨大な屠殺場跡の建造物は、全体にガラスが嵌め込んであって現代的なデザインに変身している。オルセー駅がオルセー美術館に変身したように見事に現代風の建造物になっている。シテ・ド・ラ・ミュジクは、シドニーのオペラハウスやNYのグッゲンハイムを横にしたようなデザインになっている。   

運河の向こうに以前にみた鏡面球体の丸い劇場があるはずだが暗くてよく見えない。確かに20年前にこの辺はまだできていなかった。運河を挟んで快くデザインされた照明が利いている。運河の分岐点で視界が広くなっていて、対岸の建物が薄明のなかに浮きあっがっている。早朝の散歩や出勤の人々が自転車で通りすぎる。

その日の夜コンサートホールでメシアンの「渓谷から星座へ」を聴く。ピアニストの永野英樹さんは、20年前に渡仏してコンセルバトワールで学び、最優秀賞で卒業し、アンサンブル・アンテルコンタンポランのソロピアニストとして、指揮者のピエール・ブーレーズに認められ、以後ヨーロッパを中心に活躍されていますが、年に数回日本でコンサートを開かれます。ご両親が荒川区にお住まいですので、2007年7月1日に荒川区のサンパール荒川で荒川少年少女合唱隊とヴァイオリニストの川田知子さんとコンサートを開いていただきました。川田さんとは、東京芸大の付属高校で同級生だったこともあって、絶妙なコラボレーションでした。このときの録音は、本人に差し上げましたが、歴史的なものだったと思います。

パリで永野英樹の演奏を聴くこと。この目標は達成できました。弟もそのために同じホテルに一泊して、終演後楽屋を訪れ、久しぶりの邂逅を楽しみ、翌日バスティーユ広場の近くで食事することになりました。これは、いわば永野英樹君が弟に対する出世払いの意味があったのです。およそ20年前にコンセルバトワールに単身やってきた永野さんが身寄りと言えば、数人の日本人留学生と弟のような在パリの邦人だったというわけです。弟にしてみれば、それほどのことはしていなかったと言うのですが、永野さんにとっては、気持ちの問題だったのでしょう。ご両親ともども姪御さんとこちらは妻と俊樹と私の総勢7名の食事会になってしまいました。実は、当初の私の企画では、日本でこのコンサートツアーの参加者を公募して、会費制の10名前後のツアーをと考えていたのです。応募者が全然なく、甲府の熱狂的なファンの方も仕事の関係で参加できなくなって、最悪私たちだけで行くことになるのかと思っていたのですが、総勢7名で私としてはなんとなく面目が立ったと思いましたが、永野さんにラディシオンをされることになるとは・・・感謝。

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imakokoniiru@yahoo.co.jp no.2

imakokoniiru@yahoo.co.jp no.2  jimma080525

20082月にフランスに行った理由は二つ。一つ目は、メシアン生誕100年記念のアンサンブル・アンテルコンタンポランのコンサートで永野英樹のピアノを聴くこと。二つ目は、民宿を始めた実弟俊樹のサンファルジョーの家に行くことだった。

パリは寒かった。一回目に書いたようにセーヌ河岸が特に寒い。それでも地下鉄のホームや通路は真っ白に塗り替えてあって、電灯の数が増えて隈なく照らしていて、表示も判りやすく、ポスターが綺麗で快適だった。ジプシーも見かけない。

パリの北方サンドニ運河の左右岸にかつて屠殺場の周辺を公園にして、左岸にミュゼ・テクニカルと表面を鏡で覆った完全球体の劇場ゼウン。右岸に100台ピアノがあるというル・コルビュゼ風のデザインの国立音楽学院(コンセルバトワール)やシテ・ド・ラ・ミュジクと銘打ったコンサ-トホールとミュゼ・ミュジク、レストランのある建物とガラス張りの大きな屠札場あとの多目的文化ホールをつくった。10年ほど前に行ったときは、左岸は既にできていて、球体劇場では「星の王子様」をやっていた。いずれその先に音楽学校とコンサートホールのある音楽村ができると言う話をオペラ・バスティーユのバックステージツアーで言っていた。(勿論俊樹がガイドがそう言っていたと教えてくれたのだが)。

10年前に行ったときは、今でも青山劇場にいる三精輸送機の遠藤さんと妻と3人でロンドンで3日間ミュージカルと芝居を6本見て、それからパリに入った。ほとんど俊樹のガイド任せだった。そのときのロンドンでの話やパリでの話は後日またゆっくりお話しすることにします。

さて今回私たちが泊まったホテルは、その公園のすぐ脇のコンセルバトワールの目の前のホテル・ド・パリという極安の連れ込み風というかビジネスホテル風のホテル。東京でインターネットで見つけた会場に一番近くて安いホテルだった。フロントのキーボックスは、厚ベニに釘を打ったような粗末な手作り。プラハのユースよりひどいもの。だが、部屋には縦長のパネルヒーターがあって、暖房は完璧。シャワーつきトイレは広く快適だった。受付にはバイト風の若い男が二人で交代で居る。あとはオーナーみたいなおじさんがパソコンをチェックしているときもあった。部屋は4階のエレベータを降りて一番手前。

窓からは背の高い街路樹ごしにコルビュゼ風のコンセルバトワールが目の前に見える。マロニエの茶色い実が枯れた枝の間に沢山ぶら下がっている。ホテルのすぐしたのレストランは高そうなので少し行ったところにマクドナルドを見つけて入ってみると気に入ってしまった。

写真を添付します。前のがメトロ・ポルト・ド・パンタンの入り口。METROと言う看板の向こうに見えるHOTELと言う表示が泊まったホテル。後のが向かい側のコンセルバトワール。両方の写真にあるマロニエの枝の間の茶色のぽんぽんがよく見えると思います。

今回から写真を入れます。シテ・ド・ラ・ミュジクや屠殺場あとの建物の写真は、未明、といっても朝8時前に撮ったので暗くて見えないと思い掲載を考えていましたが、後ろに2枚載せます。未明の屠殺場跡入り口とシテ・ド・ラ・ミュジク。

記事と一緒に写真は送れないらしいので、別掲の「ひできの記録」をご覧ください。

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imakokoniiru@yahoo.co.jp no.1

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jimma080504

60歳をすぎて自分探しとか言ってるとなにか遺書でも書いてるのかと思われる心配があるけれども、何か書き残しておいた方がいいのではと思い、この計画を始めることにする。昨年から毎年12月に国立新美術館で日本大学芸術学部の油絵科出身者を中心に30年続いている「土日会」という展覧会に出展できるようになって、今年はパリのオペラハウスとプラハのオペラハウスとシドニーのハーバーブリッジを描いている。

プラハもパリも古いヨーロッパの建物が綺麗に保存してある。パリには今年の2月で四回目、プラハには昨年の6月と4年前の2回。オーストラリアは、メルボルンに3回、シドニーに1回行っている。いずれも仕事と絡めて行っている。一番初めに海外に行ったのは、それこそ30年前にロンドンとパリに大韓航空で行ったのが最初だが、パリはオルリー空港に初めて降り立ったときには今でもその光景を思い出すが、第一印象は見るものすべて色が綺麗なことだった。

そのやわらかい光線は、ここならいい絵が描けると思わせた。人々の髪の色がまた明るく美しい。着ている物がなんであれ何色であれ髪の色と調和している。黒も天然色の一つになる。モノトーンでなく、カラーのなかの一色になるのだ。ドゴール空港に比べてオルリー空港のほうがいにしえのヨーロッパのかおりを残していて、特に芸術の国の空港という洗練された美しさがあったような気がする。今は、ドゴールだけでなく、スキポールもトロントもインチョンも成田もどこへ行っても同じ様な感じがする。

オルリー空港でフランスにいる弟が車で迎えに来てくれたので、車寄せで待っていたとき、いかにもアパレル系のスタッフといった日本人の若者が近づいてきて、「チケット取れましたか?」と聞いてきた。今日はコレクションがあったので帰りの航空券がなかなか取れないのだそうだ。「今来たところなんですよ」と答えながら、私の着ているものがパリコレから帰るスタッフに見えたのだろうかといささかいい気持ちになった。ちなみにその時私は、茶色の濃いバックスキンの安物のハーフコートに薄いグリーンのダーバンの厚手のブルゾンスーツのパンツでした。今ではそんなこじゃれた格好はできませんが、当時は結構決めていたのかもしれません。オルリー空港からパリの中心部までの景色は、いまより綺麗だった印象があります。空の色といい建物といい、柔らかな光線のなかで輝いていました。何回かヨーロッパや北米に行くと、若いころに感じた強烈な第一印象が薄れてくるのでしょうか。特に最近はどこへ行ってもスタバやマックがあって助かりますが、その分異国にいる感覚が薄れることになると言えます。

今回もパリでホテルのすぐそばのマクドナルドでの朝食が日本のマクドと違ったヨーグルトやパンがおいしくて楽しかった。今年(2008年)は2月に行ったのですが、久しぶりに行ったオペラ・ガルニエの正面上の左右の女神像が金色に綺麗に塗ってあって、壁や柱や彫刻が色の違った大理石で輝いていました。30年前に撮った写真では、女神はその金色がはがれた渋い色でしたので、すべてが綺麗すぎてフランスのかつて王政時代の栄華を感じることができました。ですが、反面綺麗すぎて芸術の持つ伝統とか重厚さが薄くなった気がしたのは、わたしだけではないと思います。

それは、作家のアンドレ・マルローが文化相時代にパリ中の建物を磨く義務を法制化して以来のことだと聴いていますが、そのことは年を追うごとにパリが綺麗になっていることで納得がいきますし、薄汚いグレーに汚れた外壁を見るよりは住民にとっても旅行者にとっても有難いことではあります。その始まりが30年前だとすると、そして、そうした建造物の上にある彫刻が金色に塗りなおされた最初は、アンバリッドの楕円形の大きな屋根だったように思いますが、その金箔が今回既に汚れてきていました。

次にバンドーム広場やバスティーユ広場の真ん中にそびえる円柱の塔が綺麗に洗われて青銅色の緑が美しく、その上の像も金箔になった。アレクサンドル三世橋の四隅に立つ塔の上の獅子も金箔、そしてオペラ・ガルニエの屋根の上の左右の馬も数年前ははずされていて、どこかで青銅を磨いてきたのだろうか、今回はちゃんとのっけてあって、まぶしいくらいだ。

パリを見物するにはメトロを使うのが一番判りやすく、一週間共通券を買えば便利。

いつ来ても工事中だったノートルダム寺院はファサードがすっかり綺麗になっていて、クリスマスツリーもそのまま置いてあって、一月遅れのクリスマスの休日といった感じで賑わっていた。その日は、まずサンジェルマン・デ・プレにあるドラクロワ美術館に行って、ラテンクオーターを歩いてパンテオンに行き、ユニコーンのタペストリーのあるクリュニュー美術館、そしてラテンクオーターのレストランで食事をして、ノートルダムへ行った。サンジェルマン・デ・プレの教会の中をのぞいてみた。古い暗いカソリックの伽藍だが、それでもクラシック音楽の演奏会のポスターが貼ってある。

地図を見ながら、教会の裏のほうにあるドラクロワ美術館を探したが、通りの表示や美術館の表示が小さくて何回も前を通り越して、やっと見つけるが、お目当ての自由の女神がフランス国旗を振り上げている革命の絵が見当たらない。係員にどこにあるかと聞くと当然のように「ルーブル」だった。おかしいなルーブルでも散々探したのに見つからなかったから、個人の美術館ならあるかと思ってきたのに・・・・・・・。この疑問を係りに聴くだけのフランス語が出てこなかったので諦めて、外にでて、教会の裏側から表の方に

廻ってあちらこちらと写真を撮りながら、ラテン地区へ向かうつもりなのだが・・・・。手持ちの地図を見て、教会の脇の地図と方向を定めて歩き出す。どこへ行っても私はこの方法で異国の街を歩いた。昨年6月にはじめて行ったミュンヘンでもそうした。時にはとんでもないところに行ってしまうこともあるが、なにもガイドブックに載っている場所だけがそこの国や街の典型ではないというのが持論だから後悔はしない。かえって、ガイドブックにはない変わった建物や町並みにぶつかって得をしたという気になる。それは、プラハでも何回も経験したことであった。そうした方が、観光地にいる観光客相手の人と違って現地の人たちと直に触れられる。勿論パリやプラハやミュンヘンは、世界中から観光客が来るし、その人たちが団体ではなく自由に歩き回っているのだから、慣れっこにはなっていると思うが、私たちのように季節外れに歩き回っている日本人はそんなにいない。

寒風吹きすさぶエッフェル塔の下に団体で来ていたのは、中国や韓国のツアーの旅行者だった。世界遺産のシャンボールのお城にも大型バスで中国や韓国の団体が来ていた。20年前にパリのムーランルージュに行ったときにJTBのツアーの大型バスの間を縫って俊樹の車を探したことを思い出すが、今やその大型バスは中国や韓国の人々が乗っているということだろう。なにせ、その日のムーランルージュのメインテーブルは、300人近い日本人団体客で埋められていたのだから・・・・・・。私たちの席は、少し後ろの少し高くなっているところで、それでもステージが良く見えて、トップレスの踊り子ともコンタクトできたと満足して帰ってきた。 

 さて、サンジェルマン・デ・プレからなだらかな下り坂を歩いていると右側に少し上り坂になっていて正面に宮殿といった感じの建物が見える。パンテオンにしては規模が小さいと思って近づくとテアトル・ナシオナル・オデオンだった。この建物も30年前は薄汚くてみすぼらしい感じだだったが、薄いベージュ色の壁石が磨かれて見違えるように綺麗だった。重厚な資産をバックにした銀行のような感じがする。

 オデオン座をぐるりと廻って少し行くと見覚えのある背の高いしゃれた鉄柵のあるリュクサンブール公園が見えてきた。ここまでくればあとは目をつぶってもラテン地区だ。妻の厚子が30年前にこの四つ角の二軒ぐらい隣の店でフランス人形を買ったのだが、その店は前に来たときに既になかった。その交差点を上って行くと何回もそこまで来て中に入ったことのないパンテオンになる。下のほうで見るよりはるかに大きなたてものである。結構な坂道でこれも若いときはなんでもなかったことなんだ。若すぎて通りすぎていってしまったところを今回は立ち止まってゆっくり見ることが今回の旅の目的となった。

正面入り口は、マドレーヌ寺院よりも規模の大きな約20mのギリシャ風エンタシス柱の上に GRANDS HOMMES LA PATRIE RECONNAISSANTE と刻んだ約30mの鴨居が乗せてある。その上にギリシャ神殿のファサードのようなレリーフつき三角屋根。大きな楕円状のドームはさらにその上に聳え立つ。中に入ってさらにびっくりするのは、そのドームの天辺から長い振り子が下げられていてそれが大きく左右にゆれていることだ。周囲の壁や天井の絵は、聖母やキリストに因んだ宗教画ではなく、科学者や文学者、政治家なのだ。そしてその建物一杯の地下にある空間は、墓地として使われている。

ヴイクトル・ユゴー、アレクサンドル・デュマ、エミール・ゾラが同じ部屋に埋葬されている。恐らくここに埋葬されている英雄、作家は国葬されているのだろう。

 ナポレオンは、アンバリッドというフランスの軍隊関係者専用の墓地の真ん中に安置されている。私たちは今回もその中にはいれなかった、現代フランス軍の元将校らしき人の葬儀が行われていたためだ。前にマダム・ロッセに案内されたときも閉館時間で入れなかったのだが、パリに来たら、アンバリッドよりもパンテオンを見たほうがいいと思った。

今回の旅でこのパンテオンの感動とヴェズレーの丘を体験したことが私の生涯で一番の財産となるだろう。長い間フランスに住んでいる弟俊樹にしてみれば何をいまさらと思うだろうが、この感覚こそフランスの真髄だと思う。

 パンテオンの前の坂道をだらだらと下っていくと、背の高い恐らくこれがプラタナスの並木というのだろうと思われる大きな街路樹のつづく道の角に古代ローマの遺跡のような崩れかけた壁が見えてくる。古代の遺跡を保存してあるクリュニュー美術館。正面入り口の前に小さな公園があって周囲の雰囲気のある立ち木や狼の銅像を撮ってから、建物を写す。時代が遡って恐らくパリができ始めたころの砦のような建物が美術館になっている。この美術館の名物はなんといっても4階にあるユニコーンのタピストリーである。ショパンの愛人のジョルジュ・サンドが田舎の古いお城で見つけたタペストリーなのだが、貴族のお妃がユニコーンや動物たちと庭で過ごしている情景を7つほどの感覚別に織り上げた壁掛けなのだが、円形の部屋の周囲に飾ってあって、それぞれタイトルが仏語・英語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語そして漢字で表示してある。視覚・聴覚・触覚・味覚・

知覚・などである。織物でここまでできるのかと思うようにユニコーンの表情が細かく描けているのです。前に来たときは閉館寸前のところを俊樹が頼み込んでこの部屋だけを見せてもらった。ほかに人がいなかったので広く感じたが、この日は混んでいて小さく感じたが、それでもそのイリュウジョンとかもし出されるムードに圧倒されて酔いしれている人々がすっかり虜にされていた。背の高い大柄の男の子みたいな若い女性も例外ではなかった。日本でもヨーロッパでもこうした歴史的な財産に興味を持つ若い人々が少なからず居ることは私たち年輩者にとっては頼もしいことである。安心して死ねると思う。

 クリュニュー美術館を出てラテン地区のレストラン街に入った。一番明るく派手目の店が歩道の方にテーブルを出して、そこを透明な仕切りで囲ってあるようなところが空いていたので入った。今の時期外は寒いから,陽があたっている温室のようなそこは快適だった。リンゴ酒とオムレツを頼んで、リンゴ酒がうまくてもう一杯頼んだ。おつりの小銭をギャルソンにあげたらマネージャーみたいな男も一緒になって喜んでくれた。“メッシー、オールボワー”といって店を出るのをこの辺で覚えたが、ガイドブックみたいにギャルソンとは言わないでムッシュウと呼ぶんだとか、勘定を頼むのに“ラディシオン、シルブプレ”と言うんだとかは、基礎知識としてはいいが、店に入って、そんなにちゃんと言わなくても、“メッシー”と“エクスキュゼモワ”とかいっていれば、あとはオムレットとかいあわなくてもメニューの写真を指差せば言いし、“テルミネ?“といわれたら”ウイ、フィニッシュ“でいい、勘定書は持ってきてくれる。シドニーオペラハウスの休憩所で“コーラ”と言ったらコールアイスコーヒーを持ってこられたことがあったが、ことばより身振り手振りの方がわかり易い。ここでりんご酒を二杯飲んだことがあとあと苦しめることになることなど思いも及ばずいい気持ちで、ノートルダムを目指して歩く。街角でアラブかアフリカの血の混じった若者が10人ぐらいでパフォーマンスをやっている。勿論威勢のいいヒップホップだ。ノートルダムの一つ下流の橋の上が絶好のカメラスポットでカップルがカメラを自分のほうに向けて撮っていたので私たちも真似して取ったら、ちょうど二人の間にノートルダムの遠景がぴったり入っていい記念写真になった。ノートルダムの正面には、クリスマスツリーが残っていて、それを背景にフランス人も写真を撮っている。

撮りながら良く観ると、正面の左右の塔の間の間隔が違うのを発見した。その間のレリーフの彫像が左右で数が違うのだ。正面に向かって左側の方が一体多く9体なのに、左側は

8体しかない。いくら数え直してもやはり左が少ない。いままでシンメトリーとばかり思っていたものが、そうではないと判ると、なにか安堵感を覚える。世の中のすべてがそうなのだと、左右対称でなくてもバランスが取れているということがあり得るということなのだ。その日は2月3日日曜日だったので昼のミサがあって、偶然にもミサに参列することができた。シスター二人と祭司一人でミサは行われた。聖餐があったが受けなかった。

私たちはプロテスタントの改革長老教会の洗礼を受けているので、カソリックの聖餐を受けることは少し信仰的に純粋さがなくなるかと思ったからだが、カソリックのほうではそれほど厳密ではなく、誰でもいい感じがする。かつて在日フランス大使館の知り合いに頼まれてその養子の日本人のこどもの命名式に出席したことがあったが、聖心女子大の礼拝堂で行われフランス語圏の黒人や日本人もいたが、誰もが聖餐を嬉々として受けていたことが思い出させられる。シスターの綺麗な声の賛美歌が印象に残った。

 外にでて塔の上のツアーに行こうと思ったが、大勢並んでいて時間がないと言われて諦める。裏のほうからシテ島の隣のサンルイ島のほうに渡る橋の上でパフォーマンスをやっている。その脇を通って橋の下に下りる。セーヌ河畔は寒かった。すぐに引き返して、ノートルダムの裏庭から写真を撮る。すばらしい建築物だ。ファサードより裏からの眺めがいろいろなバリエーションがあって楽しめる。名残惜しい写真を沢山とってサンミシェル・ノートルダムからメトロ4番に乗ってガール・ド・レ(東駅)で5番に乗り換えてホテルのあるポルト・ド・パンタンに帰った。

その日の夜中、セーヌ河岸の寒風のために体が冷え切ってしまったのか、ベッドに入って体が暖まったときに気持ちが悪くなってその日食べたものを全部吐き出してしまった。

やはり甘いりんご酒を二杯飲んだのがいけなかったのだろうか。セーヌの風に体の芯まで

冷やされたと言うことだろうか。東京に帰って一ヶ月経った3月のある寒い日に酒がうまいと思ってつい飲みすぎた日に同じことが起こった。酒を思いのままに飲めなくなるという老化現象にほかならない。情けないことだ。

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