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60歳をすぎて自分探しとか言ってるとなにか遺書でも書いてるのかと思われる心配があるけれども、何か書き残しておいた方がいいのではと思い、この計画を始めることにする。昨年から毎年12月に国立新美術館で日本大学芸術学部の油絵科出身者を中心に30年続いている「土日会」という展覧会に出展できるようになって、今年はパリのオペラハウスとプラハのオペラハウスとシドニーのハーバーブリッジを描いている。
プラハもパリも古いヨーロッパの建物が綺麗に保存してある。パリには今年の2月で四回目、プラハには昨年の6月と4年前の2回。オーストラリアは、メルボルンに3回、シドニーに1回行っている。いずれも仕事と絡めて行っている。一番初めに海外に行ったのは、それこそ30年前にロンドンとパリに大韓航空で行ったのが最初だが、パリはオルリー空港に初めて降り立ったときには今でもその光景を思い出すが、第一印象は見るものすべて色が綺麗なことだった。
そのやわらかい光線は、ここならいい絵が描けると思わせた。人々の髪の色がまた明るく美しい。着ている物がなんであれ何色であれ髪の色と調和している。黒も天然色の一つになる。モノトーンでなく、カラーのなかの一色になるのだ。ドゴール空港に比べてオルリー空港のほうがいにしえのヨーロッパのかおりを残していて、特に芸術の国の空港という洗練された美しさがあったような気がする。今は、ドゴールだけでなく、スキポールもトロントもインチョンも成田もどこへ行っても同じ様な感じがする。
オルリー空港でフランスにいる弟が車で迎えに来てくれたので、車寄せで待っていたとき、いかにもアパレル系のスタッフといった日本人の若者が近づいてきて、「チケット取れましたか?」と聞いてきた。今日はコレクションがあったので帰りの航空券がなかなか取れないのだそうだ。「今来たところなんですよ」と答えながら、私の着ているものがパリコレから帰るスタッフに見えたのだろうかといささかいい気持ちになった。ちなみにその時私は、茶色の濃いバックスキンの安物のハーフコートに薄いグリーンのダーバンの厚手のブルゾンスーツのパンツでした。今ではそんなこじゃれた格好はできませんが、当時は結構決めていたのかもしれません。オルリー空港からパリの中心部までの景色は、いまより綺麗だった印象があります。空の色といい建物といい、柔らかな光線のなかで輝いていました。何回かヨーロッパや北米に行くと、若いころに感じた強烈な第一印象が薄れてくるのでしょうか。特に最近はどこへ行ってもスタバやマックがあって助かりますが、その分異国にいる感覚が薄れることになると言えます。
今回もパリでホテルのすぐそばのマクドナルドでの朝食が日本のマクドと違ったヨーグルトやパンがおいしくて楽しかった。今年(2008年)は2月に行ったのですが、久しぶりに行ったオペラ・ガルニエの正面上の左右の女神像が金色に綺麗に塗ってあって、壁や柱や彫刻が色の違った大理石で輝いていました。30年前に撮った写真では、女神はその金色がはがれた渋い色でしたので、すべてが綺麗すぎてフランスのかつて王政時代の栄華を感じることができました。ですが、反面綺麗すぎて芸術の持つ伝統とか重厚さが薄くなった気がしたのは、わたしだけではないと思います。
それは、作家のアンドレ・マルローが文化相時代にパリ中の建物を磨く義務を法制化して以来のことだと聴いていますが、そのことは年を追うごとにパリが綺麗になっていることで納得がいきますし、薄汚いグレーに汚れた外壁を見るよりは住民にとっても旅行者にとっても有難いことではあります。その始まりが30年前だとすると、そして、そうした建造物の上にある彫刻が金色に塗りなおされた最初は、アンバリッドの楕円形の大きな屋根だったように思いますが、その金箔が今回既に汚れてきていました。
次にバンドーム広場やバスティーユ広場の真ん中にそびえる円柱の塔が綺麗に洗われて青銅色の緑が美しく、その上の像も金箔になった。アレクサンドル三世橋の四隅に立つ塔の上の獅子も金箔、そしてオペラ・ガルニエの屋根の上の左右の馬も数年前ははずされていて、どこかで青銅を磨いてきたのだろうか、今回はちゃんとのっけてあって、まぶしいくらいだ。
パリを見物するにはメトロを使うのが一番判りやすく、一週間共通券を買えば便利。
いつ来ても工事中だったノートルダム寺院はファサードがすっかり綺麗になっていて、クリスマスツリーもそのまま置いてあって、一月遅れのクリスマスの休日といった感じで賑わっていた。その日は、まずサンジェルマン・デ・プレにあるドラクロワ美術館に行って、ラテンクオーターを歩いてパンテオンに行き、ユニコーンのタペストリーのあるクリュニュー美術館、そしてラテンクオーターのレストランで食事をして、ノートルダムへ行った。サンジェルマン・デ・プレの教会の中をのぞいてみた。古い暗いカソリックの伽藍だが、それでもクラシック音楽の演奏会のポスターが貼ってある。
地図を見ながら、教会の裏のほうにあるドラクロワ美術館を探したが、通りの表示や美術館の表示が小さくて何回も前を通り越して、やっと見つけるが、お目当ての自由の女神がフランス国旗を振り上げている革命の絵が見当たらない。係員にどこにあるかと聞くと当然のように「ルーブル」だった。おかしいなルーブルでも散々探したのに見つからなかったから、個人の美術館ならあるかと思ってきたのに・・・・・・・。この疑問を係りに聴くだけのフランス語が出てこなかったので諦めて、外にでて、教会の裏側から表の方に
廻ってあちらこちらと写真を撮りながら、ラテン地区へ向かうつもりなのだが・・・・。手持ちの地図を見て、教会の脇の地図と方向を定めて歩き出す。どこへ行っても私はこの方法で異国の街を歩いた。昨年6月にはじめて行ったミュンヘンでもそうした。時にはとんでもないところに行ってしまうこともあるが、なにもガイドブックに載っている場所だけがそこの国や街の典型ではないというのが持論だから後悔はしない。かえって、ガイドブックにはない変わった建物や町並みにぶつかって得をしたという気になる。それは、プラハでも何回も経験したことであった。そうした方が、観光地にいる観光客相手の人と違って現地の人たちと直に触れられる。勿論パリやプラハやミュンヘンは、世界中から観光客が来るし、その人たちが団体ではなく自由に歩き回っているのだから、慣れっこにはなっていると思うが、私たちのように季節外れに歩き回っている日本人はそんなにいない。
寒風吹きすさぶエッフェル塔の下に団体で来ていたのは、中国や韓国のツアーの旅行者だった。世界遺産のシャンボールのお城にも大型バスで中国や韓国の団体が来ていた。20年前にパリのムーランルージュに行ったときにJTBのツアーの大型バスの間を縫って俊樹の車を探したことを思い出すが、今やその大型バスは中国や韓国の人々が乗っているということだろう。なにせ、その日のムーランルージュのメインテーブルは、300人近い日本人団体客で埋められていたのだから・・・・・・。私たちの席は、少し後ろの少し高くなっているところで、それでもステージが良く見えて、トップレスの踊り子ともコンタクトできたと満足して帰ってきた。
さて、サンジェルマン・デ・プレからなだらかな下り坂を歩いていると右側に少し上り坂になっていて正面に宮殿といった感じの建物が見える。パンテオンにしては規模が小さいと思って近づくとテアトル・ナシオナル・オデオンだった。この建物も30年前は薄汚くてみすぼらしい感じだだったが、薄いベージュ色の壁石が磨かれて見違えるように綺麗だった。重厚な資産をバックにした銀行のような感じがする。
オデオン座をぐるりと廻って少し行くと見覚えのある背の高いしゃれた鉄柵のあるリュクサンブール公園が見えてきた。ここまでくればあとは目をつぶってもラテン地区だ。妻の厚子が30年前にこの四つ角の二軒ぐらい隣の店でフランス人形を買ったのだが、その店は前に来たときに既になかった。その交差点を上って行くと何回もそこまで来て中に入ったことのないパンテオンになる。下のほうで見るよりはるかに大きなたてものである。結構な坂道でこれも若いときはなんでもなかったことなんだ。若すぎて通りすぎていってしまったところを今回は立ち止まってゆっくり見ることが今回の旅の目的となった。
正面入り口は、マドレーヌ寺院よりも規模の大きな約20mのギリシャ風エンタシス柱の上に GRANDS HOMMES LA PATRIE RECONNAISSANTE と刻んだ約30mの鴨居が乗せてある。その上にギリシャ神殿のファサードのようなレリーフつき三角屋根。大きな楕円状のドームはさらにその上に聳え立つ。中に入ってさらにびっくりするのは、そのドームの天辺から長い振り子が下げられていてそれが大きく左右にゆれていることだ。周囲の壁や天井の絵は、聖母やキリストに因んだ宗教画ではなく、科学者や文学者、政治家なのだ。そしてその建物一杯の地下にある空間は、墓地として使われている。
ヴイクトル・ユゴー、アレクサンドル・デュマ、エミール・ゾラが同じ部屋に埋葬されている。恐らくここに埋葬されている英雄、作家は国葬されているのだろう。
ナポレオンは、アンバリッドというフランスの軍隊関係者専用の墓地の真ん中に安置されている。私たちは今回もその中にはいれなかった、現代フランス軍の元将校らしき人の葬儀が行われていたためだ。前にマダム・ロッセに案内されたときも閉館時間で入れなかったのだが、パリに来たら、アンバリッドよりもパンテオンを見たほうがいいと思った。
今回の旅でこのパンテオンの感動とヴェズレーの丘を体験したことが私の生涯で一番の財産となるだろう。長い間フランスに住んでいる弟俊樹にしてみれば何をいまさらと思うだろうが、この感覚こそフランスの真髄だと思う。
パンテオンの前の坂道をだらだらと下っていくと、背の高い恐らくこれがプラタナスの並木というのだろうと思われる大きな街路樹のつづく道の角に古代ローマの遺跡のような崩れかけた壁が見えてくる。古代の遺跡を保存してあるクリュニュー美術館。正面入り口の前に小さな公園があって周囲の雰囲気のある立ち木や狼の銅像を撮ってから、建物を写す。時代が遡って恐らくパリができ始めたころの砦のような建物が美術館になっている。この美術館の名物はなんといっても4階にあるユニコーンのタピストリーである。ショパンの愛人のジョルジュ・サンドが田舎の古いお城で見つけたタペストリーなのだが、貴族のお妃がユニコーンや動物たちと庭で過ごしている情景を7つほどの感覚別に織り上げた壁掛けなのだが、円形の部屋の周囲に飾ってあって、それぞれタイトルが仏語・英語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語そして漢字で表示してある。視覚・聴覚・触覚・味覚・
知覚・などである。織物でここまでできるのかと思うようにユニコーンの表情が細かく描けているのです。前に来たときは閉館寸前のところを俊樹が頼み込んでこの部屋だけを見せてもらった。ほかに人がいなかったので広く感じたが、この日は混んでいて小さく感じたが、それでもそのイリュウジョンとかもし出されるムードに圧倒されて酔いしれている人々がすっかり虜にされていた。背の高い大柄の男の子みたいな若い女性も例外ではなかった。日本でもヨーロッパでもこうした歴史的な財産に興味を持つ若い人々が少なからず居ることは私たち年輩者にとっては頼もしいことである。安心して死ねると思う。
クリュニュー美術館を出てラテン地区のレストラン街に入った。一番明るく派手目の店が歩道の方にテーブルを出して、そこを透明な仕切りで囲ってあるようなところが空いていたので入った。今の時期外は寒いから,陽があたっている温室のようなそこは快適だった。リンゴ酒とオムレツを頼んで、リンゴ酒がうまくてもう一杯頼んだ。おつりの小銭をギャルソンにあげたらマネージャーみたいな男も一緒になって喜んでくれた。“メッシー、オールボワー”といって店を出るのをこの辺で覚えたが、ガイドブックみたいにギャルソンとは言わないでムッシュウと呼ぶんだとか、勘定を頼むのに“ラディシオン、シルブプレ”と言うんだとかは、基礎知識としてはいいが、店に入って、そんなにちゃんと言わなくても、“メッシー”と“エクスキュゼモワ”とかいっていれば、あとはオムレットとかいあわなくてもメニューの写真を指差せば言いし、“テルミネ?“といわれたら”ウイ、フィニッシュ“でいい、勘定書は持ってきてくれる。シドニーオペラハウスの休憩所で“コーラ”と言ったらコールアイスコーヒーを持ってこられたことがあったが、ことばより身振り手振りの方がわかり易い。ここでりんご酒を二杯飲んだことがあとあと苦しめることになることなど思いも及ばずいい気持ちで、ノートルダムを目指して歩く。街角でアラブかアフリカの血の混じった若者が10人ぐらいでパフォーマンスをやっている。勿論威勢のいいヒップホップだ。ノートルダムの一つ下流の橋の上が絶好のカメラスポットでカップルがカメラを自分のほうに向けて撮っていたので私たちも真似して取ったら、ちょうど二人の間にノートルダムの遠景がぴったり入っていい記念写真になった。ノートルダムの正面には、クリスマスツリーが残っていて、それを背景にフランス人も写真を撮っている。
撮りながら良く観ると、正面の左右の塔の間の間隔が違うのを発見した。その間のレリーフの彫像が左右で数が違うのだ。正面に向かって左側の方が一体多く9体なのに、左側は
8体しかない。いくら数え直してもやはり左が少ない。いままでシンメトリーとばかり思っていたものが、そうではないと判ると、なにか安堵感を覚える。世の中のすべてがそうなのだと、左右対称でなくてもバランスが取れているということがあり得るということなのだ。その日は2月3日日曜日だったので昼のミサがあって、偶然にもミサに参列することができた。シスター二人と祭司一人でミサは行われた。聖餐があったが受けなかった。
私たちはプロテスタントの改革長老教会の洗礼を受けているので、カソリックの聖餐を受けることは少し信仰的に純粋さがなくなるかと思ったからだが、カソリックのほうではそれほど厳密ではなく、誰でもいい感じがする。かつて在日フランス大使館の知り合いに頼まれてその養子の日本人のこどもの命名式に出席したことがあったが、聖心女子大の礼拝堂で行われフランス語圏の黒人や日本人もいたが、誰もが聖餐を嬉々として受けていたことが思い出させられる。シスターの綺麗な声の賛美歌が印象に残った。
外にでて塔の上のツアーに行こうと思ったが、大勢並んでいて時間がないと言われて諦める。裏のほうからシテ島の隣のサンルイ島のほうに渡る橋の上でパフォーマンスをやっている。その脇を通って橋の下に下りる。セーヌ河畔は寒かった。すぐに引き返して、ノートルダムの裏庭から写真を撮る。すばらしい建築物だ。ファサードより裏からの眺めがいろいろなバリエーションがあって楽しめる。名残惜しい写真を沢山とってサンミシェル・ノートルダムからメトロ4番に乗ってガール・ド・レ(東駅)で5番に乗り換えてホテルのあるポルト・ド・パンタンに帰った。
その日の夜中、セーヌ河岸の寒風のために体が冷え切ってしまったのか、ベッドに入って体が暖まったときに気持ちが悪くなってその日食べたものを全部吐き出してしまった。
やはり甘いりんご酒を二杯飲んだのがいけなかったのだろうか。セーヌの風に体の芯まで
冷やされたと言うことだろうか。東京に帰って一ヶ月経った3月のある寒い日に酒がうまいと思ってつい飲みすぎた日に同じことが起こった。酒を思いのままに飲めなくなるという老化現象にほかならない。情けないことだ。
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